ウィキまとめは誰でも自由に編集できるWikiサービスです

 操作

香港

・ このページの最終更新日時 2017年7月31日 (月) 05:19




香港」の掲示板 / コメント

ホンコン(香港


ホンコン(香港) 中華人民共和国の南東部、南シナ海沿岸にある特別行政区。正式には中華人民共和国香港特別行政区(Hong Kong Special Administrative Region of the People’s Republic of China)といい、外交国防をのぞく高度自治権をもつ。地名は約2000年前、このあたりで香木の一種、伽羅(きゃら)の栽培や積み出しがおこなわれていたことに由来するという説をはじめ、諸説がある。コワントン省(広東省)の省都コワンチョウ(広州)から南東へ150km、チューチアン(珠江)河口の東側に位置し、北部はシェンチェン河(深圳河)をはさんで経済特区の深圳と対する。香港島、カオルン(九竜)、シンチェ(新界)、ランタオ島など大小235以上の島々からなる。面積は1102km²。人口は679万人(2002年)。

住民と自然[編集]

住民の98%は広東省やフーチエン省(福建省)出身者をはじめとする中国人が占め、大半が仏教道教信仰している。そのほかフィリピン人アメリカ人イギリス人、インド人などがすむ。2004年10月1日現在の香港における日本人長期滞在者は2万5541人(外務省海外在留邦人数統計」)である。英語と標準中国語公用語だが、広東語が広くつかわれている(→ 中国語)。住民のほとんどは九竜香港島に集中し、世界でもっとも人口が密集した地域のひとつになっている。入り江や海岸ジャンクサンパンといった船でくらす水上生活者もいる。

地形的には山並みが海岸にむかっておちこみ、沖合にはランタオ島をはじめとする大小の島々がうかび、天然の良港をつくっている。北回帰線のすぐ南にあるため亜熱帯モンスーン気候に属し、高温多湿で、春と秋は短い。年間の温度変化は10°C前後と小さく、年降水量は2000mmをこえる。川は北部をのぞいてほとんど発達していないため、水源確保のため貯水池がつくられ、中国本土から水道管をひいて大量の供水をうけている。

経済[編集]

貿易製造業不動産建設、観光の各産業が、香港経済の4本柱といわれる。2004年のGDP(国内総生産)は1630億米ドル、1人当たり2万3680米ドルに達する。

漁業新界北部での野菜果物栽培沿岸漁業にかぎられる。一方、製造業紡績、縫製、電気コンピューター、時計、プラスチック玩具(がんぐ)などの加工型の工業が発達し、製品の大部分は海外に輸出される。

香港はまた、国際的な金融貿易センターとして知られる。香港島のセントラル(中環)地区を中心に金融街が形成され、香港上海銀行など100をこえる銀行がたちならぶ。香港株式取引所はアジアにおける重要な金融市場のひとつである。多くの多国籍企業がアジア地域統括本部を香港にもうけ、珠江デルタ地域をはじめとする中国大陸における生産や流通の拠点としている。天然の深水港にめぐまれた自由港である香港は、世界第3の規模をほこるコンテナターミナルで、最大の積出港となっている。2004年の輸出額は2655億米ドル、輸入額は2729億米ドルに達している。

香港の空の玄関として年間2000万人以上が利用してきたカイタック(啓徳)国際空港は、1998年に閉鎖され、かわってランタオ島北部沖合にチェクラプコク(赤◇角:◇は魚偏に巤)国際空港が開港した。面積はこれまでの約4倍、年間旅客対応能力は最終的に8700万人にふえる予定で、アジアのハブ空港(→空港の「ハブ空港」)になるものと期待されている。広東~九竜鉄道(1905年開通)のほか、ペキン(北京)~九竜鉄道も開通した。MTRとよばれる地下鉄空港と中心市街をつなぐ線もふくめて5路線あり、2階建てバスの路線は網の目のようにはりめぐらされている。東部や西北部ニュータウンと市区部をむすぶ鉄道や、特別区境界をこえて深圳とつながる新線の建設がすすめられている。

国際観光都市として知られる香港では、観光業が経済の中で大きな位置を占めている。2000年には世界各地から1300万人をこえる観光客がおとずれ、そのうち日本人は1割あまりだった。中国大陸からの観光客が近年急増しており、およそ3割を占めるにいたっている。観光客によるショッピング、宿泊、飲食は、観光収入のそれぞれ50%、30%、10%を占める。

観光と文化[編集]

百万ドルの夜景」をたのしむことができる香港島随一の高山ビクトリアピーク、香港島でもっともきれいな海岸レパルス・ベイランタオ島宝蓮寺の世界最大の野外仏、露店や小さな店がぎっしりならぶスタンリーマーケット1921年にたてられた黄大仙廟などの観光名所がある。

2005年9月にディズニーランドが開園した。ディズニーにとっては東京、パリにつぐ海外3カ所目のテーマパークであり、第1期としてランタオ島の126haの土地に、ディズニーテーマパーク、ホテル、ショッピングセンターレストランなどが建設された。

香港は「ショッピングとグルメの天国」といわれ、スーパーマーケットは600をこえ、中国雑貨から世界の有名なブランドまでそろっている。市街地には1万軒もの飲食店がひしめき、特色のあるヤムチャ(飲茶)や広東・北京料理などの中国料理のほかに、和・洋・東南アジア料理ファーストフードにいたるまで、あらゆる食べ物があふれている。海鮮料理で有名なアバディーンの水上レストランなどは人気がある。

小学校6年間、中学校3年間の計9年間の教育は無償となっている。香港大学、香港中文大学などの大学のほか、教育学院や技術学院などがあり、60をこえる新聞社から中国語英語新聞が発売されている。

=歴史[編集]

イギリスが領有[編集]

香港はもともと広東省新安県の一部だった。アヘン戦争後、イギリスは1842年の南京条約によって香港島を領有し、アヘン貿易の拠点とした。56~60年に清国とイギリスフランス連合軍との間でおきたアロー戦争のあと、60年の北京条約九竜半島突端部とストーンカッターズ島が割譲された。さらにイギリスは98年に香港防衛を口実に、九竜半島の残り全域(新界)と付属島嶼(とうしょ)を99年間の期限で強行租借し、香港地域の獲得を完了した。

1842年の香港人口は、わずか5000人程度だった。20世紀に入り、自由貿易港として各国と中継貿易を活発におこない、金融の一大中心地に成長した。中国本土から多数の移住者がながれこみ、1931年人口は85万人に急増した。太平洋戦争開始まもない41年末から3年8カ月の間は、日本軍の占領下におかれた。占領中、日本軍による中国本土への強制的な送還や食糧難などで人口は60万人に減少した。日本の敗戦後イギリスのもとで復興がはじまり、50年までに中国各地から国共内戦をのがれて移民難民がおしよせ、人口は236万人にふくれあがった。60年代初めに中国本土で大飢饉(ききん)が発生したため、さらに100万人の難民がこの地にやってきた。

中国へ返還[編集]

1984年中国イギリス両国政府の間で共同宣言調印され、97年7月1日に香港島、九竜新界をふくむ全香港主権中国政府回復することにきまった。共同宣言の付属文書では、返還後香港特別行政区となり、50年間は現状の資本主義経済・社会制度を維持することが確認されていた(→ 香港返還協定)。90年に中国は、返還後の「小憲法」となる香港特別行政区基本法をさだめたが、同法には「国家の分裂や反乱の扇動中央政府の転覆、国家機密の窃取、香港の政治組織が外国の政治組織と関係することを禁止する」条項がもりこまれた。

1997年7月1日、世界じゅうが注目する中、イギリス国旗ユニオン・ジャック」がおろされ、中国国旗・五星紅旗、ハナズオウ(香港特別行政区の旗)がゆっくりのぼっていった。香港割譲以来155年におよぶイギリス植民地としての歴史終止符がうたれるとともに、中国香港への主権行使回復した。香港最後のクリス・パッテン総督にかわり、96年12月に400名の香港人推薦委員の無記名投票によってえらばれた董建華(とうけんか)初代行政長官は、港人治港(香港人が香港をおさめる)の自治をはじめた。イギリス軍にかわり、中国人民解放軍の陸・海・空からなる、約1万人規模の香港駐留部隊が進駐し、防衛を担当した。また外交事務は、香港島の丘の中腹にある中央政府外交部の香港駐在機構ビルの中で開始された。

1997年7月1日を境に、英国女王胸像王冠または皇室の印のある切手スタンプは発行と使用が停止され、現行法に書かれていた「総督」「王家の土地」のような用語はすべて削除された。一方、北京語による衛星放送テレビ局、ラジオ局の開局、授業での北京語使用の励行など、「中国化」は確実にすすんでいる。社会主義体制中国の中にありながら、資本主義制度と生活方式はひきつづき維持されるという「一国二制度」の実験が開始された。しかし返還後はアジア通貨危機のあおりもあって観光客が一時減少し、失業率も上昇した。98年5月、返還後初の立法会(議会)選挙がおこなわれ、民主派勢力直接選挙でえらばれる20議席のうち14議席を獲得した。しかし立法会全体では、親中国派が過半数を占めた。

法会は、返還後の暫定議会とされており、任期は第1期のみ2年で、その後は4年である。定数は60名で、うち一定数(1998年20議席、2000年24議席、04年30議席)を直接選挙でえらび、あとは職能団体別の代表が占める。行政長官(任期5年)は、2回目以降は、産業界専門職労働界、立法会などの代表800名で構成される選挙委員会が選出する間接選挙である。2007年以降の選挙制度については修正が可能であるが、立法会の3分の2の賛成、行政長官の同意、中国全国人民代表大会常務委員会(全人代常務委員会)の批准が必要である。ただし基本法は、時期は明示していないが、最終的には普通選挙で選出するのを目標と規定している。

国家安全法をめぐって[編集]

2000年9月におこなわれた2回目の立法会選挙も、ほぼ同様な選挙結果となった。01年4月に親英派として民主派勢力に理解をしめしてきた行政ナンバー2の政務官が辞任、また7月には、中国政府による香港行政長官罷免をみとめるとする選挙条例修正案を立法会が可決、中国政府香港に対する影響力は一段と強まった。02年3月に予定されていた2回目の行政長官選挙では、選出母体の選挙委員会(800人)の9割の推薦をえて、2月末に董建華の無投票再選がきまった。

2002年9月、香港政府は、中央政府の転覆などの活動を禁じた香港特別行政区基本法23条にもとづき、具体的な違法行為をしめした国家安全法案を発表した。国家反逆罪、転覆罪、国家分裂罪、反乱扇動罪、国家機密の窃取(せっしゅ)、禁止団体の指定などに関する具体的な内容をさだめたものであったが、中国で禁じられた組織の香港での非合法化など、きびしい制約がもりこまれていた。董建華行政長官は、市民の基本的権利には影響しないと理解をもとめたが、民主党など野党は時間をかけた論議を要求した。

2003年3月に確認された広東省と香港SARSは、初期の対応のまずさもあって感染が広がり、香港では死者約300人、患者約1800人を出し、WHOによる渡航延期勧告もおこなわれた。06年6月にWHOによる感染地域指定は解除されたが、この間の広東省や中国政府の情報統制が、香港での対策をおくらせたとの認識が広がり、国家安全法案に対する反発も強まった。

2003年7月には、同法案に反対する50万人にのぼる集会・デモがおこなわれ、運動は董建華行政長官辞任要求へとエスカレートし、事態を重くみた香港政府は9月に同法案の撤回を発表、中国政府もそれをみとめるにいたった。11月におこなわれた区議会議員選挙では、民主党が躍進し、親中派は大幅に後退した。香港区議会は各区役所の諮問機関にすぎず、政治的な力はあたえられていないが、04年9月の立法会選挙の前哨戦(ぜんしょうせん)としての意味があった。

このまま2004年9月の立法会選挙にすすめば、民主派勢力に主導権をにぎられてしまうと危機感をいだいた中国政府は、民主的選挙制度の拡大に歯止めをかけた。04年4月、全人代常務委員会は、基本法で修正可能としていた07年以降の選挙制度について、07年の行政長官選挙および08年の立法会選挙の全議席にまで直接選挙を拡大することはしないとの決定をした。

これに反対する民主派の伸張が予想された2004年9月の立法会選挙は、60議席の半分30議席まで直接選挙枠が拡大されて実施された。結果は、直接選挙枠で民主党などの民主派が18議席を獲得、職能枠をあわせて23議席となったが、改選前と同議席数にとどまった。民主派内での党派間調整がうまくいかず候補者が乱立したこと、また候補者のスキャンダルがあいついだことなどが伸びをとどめてしまった。中国政府は、中国人香港観光規制を緩和したり、アテネ・オリンピック金メダリスト代表団をおくりこんで一体感演出するなど、積極的に親中派を支援した。

董建華行政長官辞任と曽蔭権新長官[編集]

2005年3月、約7年半行政長官をつとめてきた董建華辞任した。2期目の任期07年6月まで2年以上をのこしての辞任であった。辞任理由は健康上の問題とされたが、SARS対策住民民主化要求への対応などで指導力に不満をつのらせた胡錦濤国家主席中央政府による事実上の更迭であった。

代行には香港政府ナンバー2の曽蔭権(そういんけん)がつき、2005年7月に董建華の残期間行政長官をえらぶ選挙委員会による間接選挙がおこなわれることになった。結局、同選挙への立候補は曽蔭権のみで、同年6月に無投票当選がきまった。曽蔭権は、イギリス統治下の香港政庁に入って財政長官までのぼり、返還直前にイギリス政府からナイトの称号をうけた。1997年返還直後のアジア通貨危機では財政官として香港ドル防衛に成功、その功績で2001年に香港政府ナンバー2である政務官となっていた。







「香港」関連コンテンツ読み込み中...


コメント

記事「香港」に関する感想・その他のコメントはこちらで。
記事の編集に関わる議論・質問は「香港」の掲示板でお願いします。
comments powered by Disqus