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鎖国

・ このページの最終更新日時 2016年8月11日 (木) 12:47




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さこく

江戸幕府の対外政策。1598(慶長3)豊臣秀吉の死により朝鮮侵略が終息,実権を握った徳川家康が翌年明・朝鮮との講和交渉を開始し,1607年朝鮮との国交が回復した。続いて2年後,島津氏琉球征服させた( 琉球出兵)。これらには明の朝貢国である朝鮮琉球に対明交渉を仲介させる狙いがあったが,日明講和は15(元和1),失敗に終った。そこで翌年,幕府はすべての外国船に長崎来航を命じ,対外貿易の管理統制を企てた。しかしその年はヨーロッパ船の長崎平戸来港が実現しただけで,中国船の統制はできなかった。幕府日明貿易の実現を追求する一方, 朱印船東南アジア地域に渡航させ,中国船との 出会であい貿易を行なった。31(寛永8)には3年前のシャム事件を教訓に朱印船制度を 奉書船制度に改め,朱印船国際紛争に巻込まれることにより将軍の権威が毀損されることを回避,この方針の延長線上で33年奉書船以外の海外渡航を禁じ,35年一切の日本船の海外渡航禁止の措置が取られた。また同年,中国船の長崎来航が確定した。続いて39年ポルトガル船の来航を禁じ,41年 オランダ商館平戸から長崎出島に移転させ〈鎖国〉が完成した。
この間33‐39年に5次に亘って鎖国令が発せられた。36年第4次令までは長崎奉行宛の老中連署の〈下知げち状〉であり,大名一般に達せられた法令ではなかった。内容は,日本人の海外渡航禁止・キリスト教の禁止・海外貿易の管理統制の三つに要約され,このうち該当する事項が長崎奉行から当該大名に個別に伝達された。これに対し,ポルトガル船の来航を禁じた39年の第5次令は直接大名通達された。40年には 遠見とおみ番所が設置され,全国的に沿岸防備体制が構築されていった。
幕府の対外政策は〈異国渡海御制禁〉とよばれ,〈鎖国〉と認識されていなかった。18世紀末ロシアが通商を要求して以後, 通信の国・通商の国以外とは通交しないという〈鎖国〉祖法観が形成され,1805(文化2) レザノフの通商要求を拒絶して完成。01(享和1) 志筑しづき忠雄が「鎖国論」を著し,〈鎖国〉の語が生れた。幕府異国船打払令を発した25(文政8),会沢安は「 新論」を著し,幕初以来の対外政策を〈 海禁〉と評し,43(天保14)に成立した「徳川実紀」も上述の海外渡航禁止政策を〈海禁〉と評した。幕末, 開国を迫られたとき〈鎖国〉観念が生れたのである。
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