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鎌倉幕府

・ このページの最終更新日時 2016年8月11日 (木) 14:48




鎌倉幕府」の掲示板 / コメント

かまくらばくふ

鎌倉を拠点として樹立された最初の武家政権。1180(治承4)平氏打倒の兵を挙げた源頼朝鎌倉を本拠と定めたことに始まり,後醍醐天皇の倒幕計画に呼応して各地に勃発した反乱によって,1333(正慶2/元弘3)滅亡した。 鎌倉時代という時代呼称は,政権が鎌倉に所在したとの認識に基づくものであるが,鎌倉幕府はのちの江戸幕府に比肩しうるような意味での全国統一政権ではない。京都の朝廷は鎌倉幕府から独立した政権としての実質を有していたし,全国の武士がすべて鎌倉幕府に組織されたわけではなかった。鎌倉幕府は,第1に 東国を固有の勢力圏とし,第2に武士動員して朝廷から委任された国家的治安維持を実現することを目的とする政権であった。東国政権としての幕府は,1180(治承4)以降の内乱(治承・寿永の乱)の過程で実体的に形成され,侍所公文所問注所などの機関が順次設置された。83(寿永2)平氏西走後の後白河法皇と頼朝の政治折衝の結果,同10月の宣旨( 寿永二年十月宣旨)により東国支配権が承認された。また85(文治1)平氏滅亡後の頼朝と弟義経の対立を背景として,頼朝は義経追討を名目に,日本国惣追捕使惣地頭地位と諸国守護地頭の任命権を朝廷に認めさせる。頼朝は,89年奥州藤原氏を滅ぼして全国制覇を達成し,翌年(建久1)上洛して後白河と会見,92年後白河の死後,征夷大将軍地位を獲得した。頼朝の死後,有力御家人間の抗争が相次ぎ,その過程で主導権を握った北条氏地位執権とよばれるようになるが,1221(承久3)後鳥羽上皇北条義時追討の兵を挙げる(承久の乱)。幕府はこれに反撃して朝廷に対する優位を確立し,支配領域を拡大。またこの時, 六波羅探題を設置した。執権は元来将軍職務を代行する地位であったが,26(嘉禄2)の 摂家将軍成立後, 北条泰時の時に執権地位将軍から独立し,将軍執権は対立拮抗しながら,やがて後者が前者を凌駕していくことになる。 得宗とくそうとよばれる北条氏の嫡流は,執権を世襲することにより地位を確立したが,時頼以後,得宗執権地位を退いた後も実権を掌握する例が開かれ,得宗を中心として幕府権力は強化されていった。蒙古襲来もその促進要因となり,また蒙古に備えることを契機として, 鎮西探題が設置された。一方天皇家は後嵯峨ののち持明院統大覚寺統に分裂し,次第に対立を深めていったが,幕府はその調停に苦しめられ,調停の不調が倒幕運動を触発することになった。







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