ウィキまとめは誰でも自由に編集できるWikiサービスです

 操作

足利尊氏

・ このページの最終更新日時 2016年8月30日 (火) 13:16




足利尊氏」の掲示板 / コメント

あしかが たかうじ

1305(嘉元 3) ~ 1358(<南>正平13,<北>延文 3.4.30)
室町幕府の初代将軍。初名は高氏・又太郎高氏戒名等持院仁山妙義・長寿院。清和源氏足利流の惣領足利貞氏の二男、母は上杉頼重の娘清子(キヨコ)で、足利義直(タダヨシ)の同母兄。
1331年、家督を継ぐ。元弘の変で鎌倉幕府の命を受けて大仏貞直とともに上洛後醍醐天皇軍を討つ。乱平定ののち鎌倉に帰る。しかし源氏復興の野心を抱いていた高氏は、1333(<南>元弘 3,<北>正慶 2)密使を伯耆の後醍醐天皇に送り、4月丹波篠村で幕府に叛旗を翻し、5月赤松則村千種忠顕らと京都を攻撃し六波羅探題を陥れる。
建武中興の功臣となって後醍醐天皇(諱:尊治<タカハル>)より「尊氏」を賜り、武蔵・常陸・下総の守護職と北条氏所領を与えられ、正三位参議となる。しかし、征夷大将軍に任命されなかった不満から建武政権に協力せず、護良親王(モリナガ・シンノウ)と対立する。1334(<南>建武元,<北>建武元.11.)天皇親王の逮捕を強要し、親王の身柄を鎌倉に送り、弟足利直義のもとに幽閉する。
1335(建武 2.6.)北条時行が美濃で挙兵し鎌倉に侵入するや、直義を救援するため東下し、8月時行を鎌倉から追放する。11月新田義貞(ニッタ・ヨシサダ)討伐と称して兵を集め、建武政権にそむいて箱根竹ノ下の戦で義貞に勝利し京都に上る。1336年北畠顕家(アキイエ)・新田義貞の軍から兵庫に逃れ、楠木正成(クスノキ・マサシゲ)に敗れて九州に敗走。途中、光厳院(コウゴンイン)の院宣(インゼン)を受けて賊名を避ける。同年2月筑前国多々良浜で菊池武敏を破り太宰府に入り、人心を收攬(シュウラン)し勢力を盛り返して兵20万・船師7千隻をもって東上し、5月兵庫湊川楠木正成を敗死させ、新田義貞を破って6月再び京都に入る。後醍醐天皇比叡山に逃れ、名和長年(ナワ・ナガトシ)ら天皇方の将士が戦死する。尊氏は賊名を避けるため豊仁(ユタヒト)親王を奉じて光明天皇(北朝)を擁立する。11月僧是円玄慧に命じて『建武式目』を定めさせ、幕府を開く。
1338(<南>延元 3,<北>建武 5.8.11)征夷大将軍となる。1339(<南>延元 4,<北>暦応 2.8.)後醍醐天皇吉野で死去し、尊氏は天皇のため盛大な法要を営み、天竜寺を創建する。
1349(<南>正平 4,<北>貞和 5)弟直義が尊氏の執権高師直(コウノモロナオ)と争うと、尊氏は師直を支持し、子の義詮(ヨシアキラ)を鎌倉から呼び寄せて直義の諸権限を与える。1350(<南>正平 5,<北>観応元.10.)直義は南朝に降り、師直討伐の軍を起し、翌1351(<南>正平 6,<北>観応 2.2.)師直・師泰を殺害。ついに室町幕府は尊氏・義詮派と直義・直冬派とに分かれ抗争する(観応擾乱<ジョウラン>)。1352(<南>正平 7,<北>観応 3.2.)尊氏は直義を鎌倉で毒殺する。
六年後、中国・九州に勢力を奮う直義の子直冬(タダフユ)(もと鎮西探題)を討つため九州への遠征を計画するが、果たさず病没。
(*)1331(元徳 3,元弘元)、1336(<南>建武 3,<南>延元元,<北>建武 3)。







「足利尊氏」関連コンテンツ読み込み中...


コメント

記事「足利尊氏」に関する感想・その他のコメントはこちらで。
記事の編集に関わる議論・質問は「足利尊氏」の掲示板でお願いします。
comments powered by Disqus