ウィキまとめは誰でも自由に編集できるWikiサービスです

 操作

豊臣秀吉

・ このページの最終更新日時 2016年8月30日 (火) 12:44




豊臣秀吉」の掲示板 / コメント

とよとみ ひでよし

1536(天文 5.1. 1) ~ 1598(慶長 3.8.18)
◇戦国・安土桃山時代の武将。幼名は日吉日吉丸(ヒヨシマル)、のち木下藤吉郎(キノシタ・トウキチロウ)・羽柴秀吉(ハシバ・ヒデヨシ)。尾張国愛知郡中村生れ。父は弥右衛門(ヤエモン)(鉄砲伝来の1543<天文12>に没)で『太閤素生記』では織田信長鉄砲足軽、『フロイス日本史』では貧しい百姓の伜。
1551(天文20)15歳のとき家を飛び出し奉公口を求めて放浪、遠江国久能の城主松下加兵衛之綱(カヘエユキツナ)(今川氏の家臣)に仕える。
1558(永禄元.9.)18歳のとき尾張に戻り、清洲(キヨス)の織田信長草履取りとなり、木下藤吉郎と改名。1563(永禄 6)普請奉行として清洲城を修築(100間を10組に分け競争で工事に当らせる)。1566(永禄 9)墨股(スノマタ)城築城に功をたてる。1570年、部将の地位を得て羽柴と改姓(丹羽長秀柴田勝家にちなむ)、朝倉義景浅井長政討伐に従軍。1573(天正元.8.)浅井氏滅亡後、その遺領を与えられ、長浜に築城。1575(天正 3)筑前守に任ぜられる。
1576(天正 4)中国地方の平定を任ぜられ、播磨・備前・美作(ミマサカ)・因幡(イナバ)の毛利氏の諸城を攻略する。1577(天正 5.10.)播磨の姫路城を根拠とし、11月但馬(タジマ)・山口・岩州(イワス)・竹田の諸城を降(クダ)す。ついで播磨国の上月景利(コウヅキ・カゲトシ)の上月城別所長治(ベッショ・ナガハル)の三木城(ミキジョウ)を落す。1581(天正 9)姫路に帰り、信長の命を受け因幡に入り山名豊邦(ヤマナ・トヨクニ)の鳥取城を落し、一時淡路を征する。
1582(天正10.3.)備中に入り、清水宗治(ムネハル)の高松城を囲んでいたが、本能寺の変を知り直ちに毛利輝元(テルモト)と和睦。軍を返して四国征伐の援軍織田信孝(ノブタカ)・丹羽長秀(ニワ・ナガヒデ)とともに山崎の戦で明智光秀を倒す。
6月18日織田信長信忠(長男)ともに亡くなり後嗣(アトツギ)が清洲で話し合われる(清洲会議)。山崎の弔い合戦に加わった信長の三男信孝を柴田勝家丹羽長秀佐久間盛政(モリマサ)らが推し、次男信雄(ノブオ)を滝川一益(カズマス)が推し対立。光秀追討の勢いに乗る秀吉が、信雄は北畠家を、信孝は神戸(カンベ)家を継いでいるからと、信忠長男法師丸(のち秀信)を推し、反対するものがなく決定する。
1583(天正11.4.20)賤ヶ谷の戦で大勝し、柴田勝家織田信孝を滅ぼし、滝川一益降伏させる。同年11月、石山本願寺跡に大坂城を起工。1584(天正12)徳川家康と結んだ織田信雄と小牧(コマキ)・長久手(ナガクテ)に戦い、池田信輝(ノブテル)らを失い敗れて和睦する。のち家康の子秀康を養子とし、秀吉の異父妹朝日姫(アサヒヒメ)を家康の正室(後妻)とする。1585(天正13.3.)紀伊の根来衆(ネゴロシュウ)・雑賀衆(サイカシュウ)を討ち、6月長宗我部元親(チョウソガベ・モトチカ)を降伏させて四国を平定。
同年7月四国平定の功により従一位関白となり、藤原に改姓(関白はそれまで藤原氏以外に例がない)。同年8月前田利家(トシイエ)を先軍に越中富山城佐々成政(サッサ・ナリマサ)を攻めて剃髪させる。同じ8月大坂城が完成、五奉行を置き大規模な大名の配置替えを行い、天下統一の体制を整える。
豊臣姓を賜り、1586(天正14)太政大臣となる。同年聚楽第(ジュラクダイ)を着工。1587(天正15.3.)九州征伐を行ない、薩摩島津義久(ヨシヒサ)を討ち、九州を平定し7月に大坂に凱旋。同年10月1日、京都北野天満宮境内で800以上の茶室が設ける大茶湯を催す。聚楽第が完成し、1588(天正16.4.)後陽成(ゴヨウゼイ)天皇・正親町(オウギマチ)上皇行幸(ギョウコウ)。1590(天正18.3.)後北条氏政(ウジマサ)を小田原に滅亡させ、7月戦わずして奥州を平定し、天下を統一する。同年 9. 1京都に凱旋、調停に奏上する。
1591(天正19)関白養子秀次(ヒデツグ)(姉日秀の子)に譲り、太閤と称する。
1592(文禄元)小西行長加藤清正らを朝鮮に出兵させ、秀吉自ら 3.26京都を立ち、途中厳島(イツクシマ)神社に戦勝を祈願し、 4.25肥前名護屋に至る。1593(文禄 2.5.)明の援軍の沈惟敬(シン・イケイ)を名護屋に迎え、講和の条件を示し、朝鮮より軍を引き揚げる(文禄の役)。
1594(文禄 3)実子秀頼(ヒデヨリ)が生れる。1595(文禄 4)秀次を高野山で自殺させる(石田三成の讒言といわれる)。
1596(慶長元.9.)明使節(楊方享・沈惟敬)が来朝、講和条件が合わずこれを返し、1597(慶長 2.1.)再び朝鮮に軍を進めたが、病気により軍を召還する(慶長の役)。秀吉の死後も戦いがあり、引き上げが完了するのは年末ごろ。
太閤検地を実施し石高制の基礎を固める。刀狩り令や人払い令を発して兵農分離を進め、身分制を確立させる。
外交面では1586(天正14)と1588(天正16)対馬宗義智(ソウ・ヨシトモ)を、1589(天正17)僧玄蘇(ゲンソ)を朝鮮に遣わし、修好を求めている。同年、琉球尚寧(ショウネイ)の遣いが、翌年朝鮮王李(「沿」の「三水」偏を「日」偏に替える:補助なし)(リエン)の遣いが聚楽第に来るが、明に憚(ハバカ)り修好の返答は無かった。1591(天正19.9.)朝鮮征伐の命を発する。さらに同年秋、原田孫七郎フィリピン太守に遣い、1593(文禄 2.11.)台湾に書を送り、修好を求めているがともに不首尾。
(2)誕生日は1536(天文 5)(異)37。
'85……豊臣姓勅許。
'90……同年関白を辞して養子秀次に譲り,太閤となる。
(4)生年は1536。
一八五八関白、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣、九一年関白養子秀次に譲って太閤と称。
(6)生年は1536。
86年太政大臣となり豊臣の姓を賜った。
(16)誕生日は1536(天文 5.1. 1)。
84(天正12)……翌年……関白となって豊臣氏を称した.
91(天正19)年関白職を養子秀次に譲り,太閤と称した.
(17)生年月日について、天文五年(一五三六)正月元日説と翌六年二月六日説とがあるが、確かな史料に「酉之御年」とみえるので、現在では天文六年説が支持されている。
(*)1570(永禄13,元亀元)。
1536(天文 5)は丙申(ヒノエサル)歳。
五大老:徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,上杉景勝
五奉行:浅野長政,石田三成,増田長盛,長束正家,前田玄以







「豊臣秀吉」関連コンテンツ読み込み中...


コメント

記事「豊臣秀吉」に関する感想・その他のコメントはこちらで。
記事の編集に関わる議論・質問は「豊臣秀吉」の掲示板でお願いします。
comments powered by Disqus