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自由民権運動

・ このページの最終更新日時 2016年8月30日 (火) 10:13




自由民権運動」の掲示板 / コメント

じゆうみんけんうんどう

明治前半期,立憲政体の確立(憲法制定・国会開設)と自由・自治の保障,地租軽減,条約改正等を要求した国民諸階層による民主主義政治運動。幕末以来 公議政体論が唱えられ議会制度の構想が芽生えていたが,1873年の征韓論争で下野した板垣退助らは政治への国民参加を求めて翌年 民撰議院設立建白書を提出,ここに運動が開始された。加藤弘之の尚早論,大井憲太郎の推進論に立つ論争が始まり,全国に立憲政治論・ 天賦人権論が広まった。板垣らは立志社愛国社を結成。75年の 大阪会議・漸次立憲政体樹立の詔勅によりいったん動きは静まったが,77年に片岡健吉らは国会開設の建白書を提出,78年9月愛国社を再興,80年3月国会期成同盟に発展させ,請願運動を展開,憲法草案( 私擬憲法)の作成をよびかけ, 国会開設運動を本格的に進めた。士族知識人に加えて全国各地の豪農豪商らによる運動も活発となり,多くの政治結社が組織された(89年までに民権結社は2043)。運動の高まりに政府は81年10月御前会議で10年後の国会開設を決定,政府部内を固め,天皇中心の近代立憲政治体制確立に向った。民権派はこれに対抗して自由党立憲改進党を結成,地方政党も誕生。いっぽう租税負担の増大と松方財政により生活の基盤をおびやかされた民衆は急進化し,一部自由党員と結び困民党を結成,また 加波山事件秩父事件などの激化事件を続発させたが,政府権力の弾圧を誘発し,民権運動の終幕を告げるものとなった。自由党立憲改進党は相互に攻撃しあい,信頼を失って衰退,解党。その後, 三大事件建白運動大同団結運動を展開したが弾圧された。89年2月天皇主権欽定憲法が発布され,国民の権利はその枠内でのみ認められた。民権派は初期議会民党として活動したが,国権論伸長とともに政府妥協していった。
国民が自ら立憲政治の樹立をめざしたことは,近代国民国家成立に大きな意義を持った。運動の性格を絶対主義政府打倒をめざしたブルジョア民主主義革命と規定する見解が戦後有力であり,その視角に基づき広く国民諸階層が参加したことが明らかにされた。1981年の〈自由民権百年〉の運動はそのような研究動向の頂点を示すもので,運動を顕彰する集会が各地で開かれ,史料や「自由民権研究文献目録」(84)などが刊行された。近年は,欧米並の近代国民国家建設を目指す点で政府内部の開明政治家と国家構想を共通にすることを強調する見解や,民権運動と民衆運動を区別し,困窮農民の運動の背景に近世以来の農民自治の伝統を見,百姓一揆とのつながりを重視する見解も出ている。北海道・アイヌ・琉球等が置き去りにされた限界があるいっぽう,この運動が政治空間・政治文化を自立させた意義が指摘され,新聞雑誌演説会の役割,都市民権派の運動に注目する研究も進展している。







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