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織田信長

・ このページの最終更新日時 2016年8月11日 (木) 14:44




織田信長」の掲示板 / コメント

おだ のぶなが

1534(天文 3) ~ 1582(天正10.6. 2)
◇戦国・安土時代の武将。幼名は吉法師(キチボウシ)。尾張国生れ。織田信秀(ノブヒデ)の次子、織田信忠(ノブタダ)・信雄(ノブオ,ノブカツ)・信孝(ノブタカ)の父。信広の異母弟、信行・信包(ノブカネ)・有楽斎(ウラクサイ)・お市の方の兄。妻は斎藤道三(ドウサン)の娘濃姫(ノウヒメ)。
1546(天文15)古渡城で元服、三郎信長と名乗る。1551(天文20)家督を継ぐ。信長に離反するものが多く、1552(天文21)松葉・深田の織田氏を討つ。ついで清洲の織田信友を討ち、兄弟の信行・信広を討つ。1553(天文22)お守り役の平手政秀(ヒラテ・マサヒデ)の諌死により傍若無人の振る舞いを改めたと伝えられている。1555年、清洲城に移る。1559(永禄 2)織田信賢の岩倉城を降ろし尾張一国を略定。
1560(永禄 3.5.)桶狭間(オケハザマ)の戦で今川義元奇襲し倒す。1562(永禄 5)三河松平元康(徳川家康)と同盟し、1567(永禄10.8.)斎藤龍興(タツオキ)(道三の孫)から美濃の稲葉城を奪い、岐阜と改め清洲より移る。
1568(永禄11)北伊勢を平定。7月、松永久秀に逐われ朝倉義景亡命していた足利義昭(ヨシアキ)(義輝の弟覚慶)が信長の許に身を寄せる。9月、義昭を擁して入京、10月第15代将軍に就け二條城を築く。
1570(元亀元.6.)家康の援軍を得て姉川(アネガワ)の戦で浅井長政朝倉義景を破る。11月下旬六角義賢と、12月中旬浅井・朝倉両氏と和睦。1571(元亀 2)比叡山延暦寺を焼き打ちする。
義昭との不和から1573(元亀 4)義昭を追放室町幕府を滅ぼす。1574(天正 2)長島一向一揆を鎮圧。
1575(天正 3)長篠(ナガシノ)の戦で武田軍を破る。1576(天正 4)安土城を築く。1578(天正 6)上杉謙信が病没。1582(天正10.3.)武田勝頼を滅ぼす。
羽柴秀吉の要請で中国地方へ向う途中、宿泊先の京都本能寺(ンノウジ)で明智光秀に襲われ、天下統一の半ば、自刃(本能寺の変)。
後に京都建勲(ケンクン,タケイサオ)神社に祭られた。
(2)尾張国那古野城で生まれる。
(16)尾張古渡の生まれ.
(17)同二十一年父が死ぬと、十九歳で家をつぐ。:誤(信秀は天文20年没)。
著者:中山榮作,發行所:博文館 昭和11年 8月20日 増補24版發行
名古屋城(ナゴヤジヤウ)に生(ウマ)れた。
(*)1555(天文24,弘治元)。







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