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源頼朝

・ このページの最終更新日時 2016年8月11日 (木) 14:53




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1147(久安 3) ~ 1199(建久10.1.13)
鎌倉幕府の初代将軍。幼名は鬼武丸・鬼武者・幡屋(ハタヤ)武者王。源義朝(ヨシトモ)の三男、母は熱田大宮司藤原季範の娘。
1158(保元 3)皇后宮権少進。1159(平治元.12.)平治の乱が起こり、翌年 1. 4父義朝が殺される。同年2月頼朝は伊豆蛭ヶ小島に流され、伊東祐親北条時政らの監視下におかれる。祐親の娘八重姫との間に千鶴丸をなすが、祐親に仲を裂かれ千鶴丸も殺される。やがて時政の娘政子と結婚
1180(治承 4.8.)以仁王(モチヒトオウ)の令旨(リョウジ)を奉じて平氏追討の兵を挙げ、石橋山(小田原市片浦)で大庭景親(オオバ・カゲチカ)に敗れて海路安房に逃れる。ここで平広常千葉常胤らの来援を得て、相摸に入り鎌倉を本拠に、同年10月富士川の戦に大勝、常陸の佐竹氏を討つなど東国を平定する。
1183(寿永 2.7.)平氏に替り木曾(源)義仲(ヨシナカ)が入京。1184(寿永 3.1.)弟範頼(ノリヨリ)・義経(ヨシツネ)に義仲を討伐させ、続いて2月摂津一ノ谷平氏を破らせる。1185(元暦 2.3.24)壇ノ浦の戦平氏を滅亡させる。
この間、後白河法皇は頼朝との対抗から義経を優遇し、1185(文治元.10.)義経の要請に応じ頼朝追討の宣旨(センジ)を発する。頼朝はこの責任を追及、義父時政を上洛させ義経追捕を名目に守護地頭の設置を公認させて、幕府開設の基礎をつくる。
1189(文治 5)義経を匿(カクマ)った奥州藤原氏を滅ぼす。
1190(建久元.11.)上洛法皇に謁見、権大納言近衛大将に任じられる。法皇の死後、1192(建久 3.7.)征夷大将軍になる。
頼朝は武士の統率や朝廷との折衝など卓越した政治力の半面、独裁的傾向があり、範頼・義経ら一族や多数の功臣を殺したため、死後に幕府内部の抗争となり、やがて権勢は北条氏に移る。
◎墓所は鎌倉鶴岡八幡宮
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