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日本共産党

・ このページの最終更新日時 2016年11月12日 (土) 07:16




日本共産党」の掲示板 / コメント

Japanese Communist Party

1922年に日本共産党はコミンテルン国際共産党)の指導の下に、政党としての活動を非合法のまま開始する。戦前に、非合法政党だった日本共産党は、戦後の民主化の中で合法化され、46年の戦後最初の国政選挙で正式に政治の表舞台に登場した。しかし、50年になって東西両陣営の緊張が高まると、GHQのマッカーサーは、中央委員24名を公職追放し、朝鮮戦争が始まると「アカハタ」の発刊を禁止した。吉田茂内閣も、この年の9月1日に共産党員や組合指導者の追放を行った(レッド・パージ)。その後は宮本顕治体制の下でその勢力を拡大していき、各種公職選挙でも一定の得票を確保するようになったが、独善的姿勢が目立ち革新勢力内部で社会党と反目することが多く、首長選挙では共闘によって革新自治体を誕生させたこともあったが、一方で足の引っ張り合いも多かった。96年の住専問題における税金投入反対で支持を集め、97年都議選では都議会第2党となった。同年9月の党大会では、宮本顕治議長の実質上の勇退(2007年死亡)で、不破哲三委員長、志位和夫書記局長へと権力の世代交代が行われた。また「保守的無党派層」との協力を重視する方針を打ち出し、やわらかく、開かれた共産党への一歩を踏み出した。98年の参院選では、比例区で800万票を集め、分裂で縮小した社民党(旧社会党)を上回った。しかし、2000年第42回総選挙では700万票を割り、党勢の陰りがみられた。同年9月には、中央委員会総会で、「社会主義革命」「前衛政党」などの文言を削除する党規約改定に踏み切り、また自衛隊の容認や機関紙での批判を許容するなど、ソフト化路線へと移行していった。00年秋に、志位が委員長、市田忠義書記局長となった。拉致問題などの北朝鮮問題で逆風が強く、03年衆院総選挙、04年参院選と議席を大幅に減らした。05年の衆院選でも、選挙区当選者はなく、比例代表8議席にとどまった。09年衆院選では、自民党に一方的に漁夫の利を献上する戦略として評判の悪かった全小選挙区立候補の戦略を見直し、立候補を半分程度に絞る戦略を採り、初めて自民党に有効な打撃を与えた。選挙結果は、小選挙区での当選は相変わらずなかったが、蟹工船ブームなども追い風となり、比例区での得票を伸ばして9議席を獲得した。







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