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徳川家康

・ このページの最終更新日時 2016年8月11日 (木) 14:57




徳川家康」の掲示板 / コメント

とくがわ いえやす

1542(天文11.12.26) ~ 1616(元和 2.4.17)
江戸幕府の初代将軍。幼名は竹千代(タケチヨ)のち元信(モトノブ)・元康(モトヤス)、院号安国院、諡号(シゴウ)は東照大権現三河岡崎城主・松平広忠(ヒロタダ)の長子、母は刈谷城主水野右衛門太夫忠政(タダマサ)の娘於大(オダイ)(伝通院)、松平定勝の異父兄。
6歳のとき、父広忠が尾張の織田信秀と戦い、今川義元(ヨシモト)の援助を得るため人質として送られる途中、信秀に奪われ那古屋の熱田天王坊に監護。8歳で人質交換により義元の駿府に移る。1555年、14歳で元服烏帽子親の義元から一字を貰い元信と称する。1557(弘治 3)16歳で義元の姪にあたる関口義弘の娘(のち築山殿<ツキヤマドノ>)と結婚。1559(永禄 2)ころ祖父清康(キヨヤス)の一字から元康と名乗る。
1560(永禄 3)19歳のとき桶狭間(オケハザマ)の戦で義元が敗死し、岡崎城へ帰る。1561(永禄 4)織田信長清州(キヨス)に会見し同盟を結び、義元の子氏真(ウジザネ)と義絶。1563(永禄 6)元康を家康と改名。同年9月から翌1564(永禄 7.3.)にかけて一向一揆を鎮圧、三河全域を支配下に入れる。1566(永禄 9)勅許により徳川と改姓。1568(永禄11)武田信玄と結んで遠江に出兵、1569(永禄12)今川氏康を滅ぼす。1570年、居城を浜松に移す。同年、信長に援軍を送り4月越前国の浅井義景、6月近江国朝倉長政の軍を姉川で破る。1572(元亀 3.12.)信長とともに三方ヶ原(ミカタガハラ)で信玄と戦い大敗(信玄は翌年病没)。
1575(天正 3)信玄の子武田勝頼(カツヨリ)を長篠(ナガシノ)城外の設楽原(シタラハラ)で破る(長篠の戦)。1582(天正10.3.)信長と連合し勝頼を滅ぼす(同年6月本能寺の変)。
1584(天正12)織田信雄を援けて尾張に出兵、小牧・長久手の戦豊臣秀吉の軍に勝利し講和大勢を考え、1586(天正14)上洛し秀吉と和睦し臣従。同年駿府に移る。1590(天正18)秀吉軍の先鋒として小田原後北条氏を滅ぼし、その功により関東八州を与えられ、江戸を居城とする。1598(慶長 3)大老となる。
秀吉の没後、1600(慶長 5)関ヶ原の戦で勝利し、石田三成ら反対勢力を一掃。1603(慶長 8.2.12)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く。1605(慶長10)将軍職を秀忠に譲り、将軍職が世襲であることを示す。1607(慶長12)駿府に退くが大御所として政務は掌握しつづける。1614(慶長19)と翌年の大坂の陣豊臣氏を亡ぼす。1616(元和 2.3.)太政大臣となる。
駿府で病没し、江戸増上寺葬儀が行われ、遺体ははじめ久能山に葬られ、遺命により翌年日光東照宮改葬
将軍就任1603(慶長 8.2.12)、退任1605(慶長10.4.16)。
(2)没日は 4.14
'60(永禄 3)桶狭間(オケハザマ)の戦で義元が戦死してから岡崎に帰り今川氏を離れる。
(6)桶狭間の戦ののた岡崎に帰り,……。
(16)没日は 4.17
59(永禄 2)年岡崎に帰る.この当時なお家康の本領三河は全く今川の勢力下にあったが,義元の没後独立して,……。
(17)没日は 4.17
永禄三年(一五六○)に桶狭間の戦いで義元が敗死すると、自立して岡崎城に帰り、……。
(*)1555(天文24,弘治元)、1570(永禄13,元亀元)。







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