ウィキまとめは誰でも自由に編集できるWikiサービスです

 操作

守護

・ このページの最終更新日時 2016年5月19日 (木) 20:43




守護」の掲示板 / コメント

しゅご

中世幕府における諸国支配の職制院政時代に諸国の国衙に警備・検察を担う職として守護が置かれたのを起源とする。源頼朝が源平の争乱の時期に東国諸国に軍事指揮官として置き,さらに平氏の追討のために西国の諸国に軍事指揮官として追討使や追捕使ついぶしを派遣したことから両制度が合体して,やがて守護という職制に統一されていった。建久年間(1190‐99)に頼朝が諸国の守護権を握るようになると,謀反人や殺害人追捕し,京の内裏の警護役である大番役を催促する権限守護に与えられて,この職権は 大犯たいぼん三箇条として御成敗式目にも規定されるに至った。さらに 大田文おおたぶみの調進に見られるように国衙行政にも関与しており,次第に諸国の支配権を握る傾向が強まった。また地頭職と並ぶ所職としての武士所帯の意識が強まると,世襲へとつながり,また北条氏一門が諸国の守護職を次第に独占する動きが鎌倉末期に強まった。室町幕府守護はこの流れに沿って,辺境の諸国では世襲されていったが,畿内近国では足利氏一門守護職を独占してゆくなか,管国内の国衙機構を吸収し,公領を支配し,公田年貢の半分を握る 半済や, 段銭棟別銭の徴収,年貢の請負を行うなど,経済的にも卓越した支配を展開したので,その存在を鎌倉幕府守護と区別して 守護大名とよんでいる。守護大名は国内の武士である 国人こくじんとも主従関係を結んで,さらに支配を伸ばしていったが,室町幕府からの規制と,国内の反対勢力が 国人一揆を結んで対抗したことで,安定した支配は構築できず,その諸国支配の完成は国人一揆を克服した 戦国大名の登場を待たねばならなかった。







「守護」関連コンテンツ読み込み中...


コメント

記事「守護」に関する感想・その他のコメントはこちらで。
記事の編集に関わる議論・質問は「守護」の掲示板でお願いします。
comments powered by Disqus