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天皇制

・ このページの最終更新日時 2016年8月30日 (火) 13:26




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てんのうせい

日本独自の 君主制。広義には前近代天皇制象徴天皇制を含め,狭義には明治維新から敗戦までの近代天皇制を指す。昭和初期に左翼用語として登場,戦後社会科学用語として定着。〈ムラの天皇制〉〈内なる天皇制〉など社会秩序・精神構造分析概念としても用いられるが,基本的には国家権力の機構とその運動形態を表す概念である。
19世紀中葉,帝国主義政策により欧米の中央集権国民国家が君臨する世界システム包摂された日本は, 明治維新で天皇親政を掲げる中央集権国家を樹立したが,それは最大の封建領主絶対君主化による西欧型絶対主義国家でもなく, 市民革命による近代国民国家でもなかった。そのため,1)国家の唯一の正当性を天皇親政に求めながら,天皇が国家と時の政治権力の手段とされる矛盾,2)納税・兵役など近代国民の義務体系を強制しながら,それに見合う近代国民としての権利体系を実現していないという矛盾を抱え込んでいた。明治6年政変から明治14年政変間の 天皇親政運動自由民権運動はこの矛盾の産物であり,その政府危機を克服し制定されたのが明治憲法であった。明治憲法は,天皇を神聖不可侵な統治権の総攬者とし広範な天皇大権を定めたが,軍の統帥を除く天皇大権行使内閣大臣の制約を受け,他方で議会国民の権利は天皇大権に名を借りる強大な政府権限により制約されていたから,2つの矛盾の本質的解消をもたらさなかった。そこで 教育勅語などによる天皇親政と天皇への服従のイデオロギー操作が不断に行われたが,現実の矛盾が解消する訳ではなかった。 初期議会では官僚政府議会の対立を天皇裁定で解決しようとする動きがあったが,親裁の実質化は天皇政治責任を及ぼして天皇神聖不可侵原則を危うくする可能性があった。 大正政変以降デモクラシーの進展,政党内閣の実現により,政治の実践的部分(政府議会)の対立の解消が天皇を尊厳的部分へ限定することを可能にし,2つの矛盾は解消に向かった。第1次戦後の一時期を除き天皇制が動揺しなかったのは,日清日露戦争勝利と国体イデオロギー浸透天皇不動ナショナルシンボルとしたからである。だが15年戦争期,天皇親政を唱える軍部の専横と国民の権利抑圧は天皇親裁の実質化をもたらし,政党政治期に一定の安定をみた明治憲法体制を崩壊に導いた。







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