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天皇

・ このページの最終更新日時 2015年12月2日 (水) 20:59




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てんのう

[1]律令国家君主の称号。和訓は〈スメラミコト〉。大王号にかわって成立。かつては,金石文にみえることから7世紀前半成立と考えられてきたが,今日では天武天皇の時より始用され,飛鳥浄御原令皇后号とともに制度化されたとする説が有力で,唐高宗天皇号採用との関連も指摘される。律令では皇帝天子君主号も規定する。明神御宇天皇あらみかみとあめのしたしらすすめらの表現から,天武期以降の現人神あらひとがみ思想を内包すると考えられる。ただし,唐に対しては天皇号は称さなかったらしい。律令法では,天皇は軍事権・外交権,賜姓権・位階授与権,天神地祇祭祀権を有する中国的な専制君主と規定される。しかし,中国皇帝は法を超越する存在であるが,天皇は多く律令拘束され,太政官議政官に代表される貴族勢力が天皇権力を制約することがあった。 皇位継承儀礼は,群臣による推戴をうける即位式と大嘗祭の祭儀とからなる。皇位の根拠は,皇位の象徴の三種の神器天照大神から授けられたという伝承をもつように,中国天命思想と異なり,高天原神話に描かれた皇祖神の子孫であることにあった。8世紀半ばより,儒教仏教により王権を基礎づけ古いあり方を脱する試みがなされ,9世紀には礼の継受により,天皇制の唐風化が貞観年間(859‐877)にピークを迎える。天皇制の安定は,一方で幼帝の誕生をみ,貴族社会が成立する中で,姻戚関係を背景に,摂政関白天皇権限を代行,補完することも行われ,祭祀のあり方も伊勢神宮を中心に再編成される。
太上天皇
皇太子
[2]中世になって 院政が行われると,天皇は院という天皇家の家長によって守られるとともに,政治の実権から疎外されるようになった。幼少の天皇即位したり,院の意思で退位させられることもあった。承久の乱では幕府によって仲恭天皇が廃され,また後堀河天皇が擁立されるなど,武家政権がその地位に深く関わるようになり,鎌倉末期の皇統の分裂もそれと深い関係がある。後醍醐天皇は倒幕によって皇統の分裂を克服しようとしたが,建武政権の瓦解により,南北朝の分裂を生むことになり,天皇支配権は著しく低下して,南北朝の統一を果した足利義満によって,天皇の帯びる多くの権限幕府支配権吸収されていった。しかし室町幕府権力の低下によって,天皇の存在は権威を担う形で存続することになった。
中世王権
[3]豊臣政権後陽成天皇を擁立し,1588(天正16) 聚楽第への天皇行幸を受けて,武家官位制的に身分編成するのに役立てた。これに対して徳川政権は,1615(元和1) 禁中並公家諸法度の第1条で,天皇に学問・和歌有職故実の習学を命じ,51(慶安4)以降は行幸も認めず,禁裏内の生活に制限し政治的に無力化させた。幕府の統制機構の下に管理された天皇だが,その中で 霊元・ 桜町・ 光格天皇は独自性を発揮して, 大嘗祭などの 朝儀再興幕府に働きかけ,徐々に朝廷復興の機運を醸成させていった。1853(嘉永6)ペリー来航以後の幕府権力の弱体化と尊王思想に支えられて,天皇は再び政治権力化し67(慶応3) 王政復古となる。
[4]近現代
天皇制







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