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大日本帝国憲法

・ このページの最終更新日時 2015年11月19日 (木) 10:02




大日本帝国憲法」の掲示板 / コメント

だいにっぽんていこくけんぽう

1889.2.11発布,90.11.29施行憲法明治憲法1947.5.3 日本国憲法施行にともない廃止。明治政府内では左院の国憲編纂局が憲法制定を検討したのち,1875年漸次立憲政体樹立の詔をうけ元老院が〈国憲〉案を起草。他方,自由民権運動の中からは二院制議院内閣制をとる 交詢社私擬憲法案〉をはじめ, 立志社日本憲法見込案〉などの〈私擬憲法〉草案が多数発表された。自由民権派と対抗して作成された右大臣 岩倉具視の〈憲法大綱領〉が大綱を示し, 明治14年の政変後,伊藤博文は欧州憲法調査を行ない, ロエスレルらの意見を参考に 井上毅伊東巳代治金子堅太郎と草案を起草,枢密院の諮詢を経て,89年発布に至った。
[内容]上諭・7章76条からなる 欽定憲法天皇は神聖不可侵な国家元首で憲法に従い統治権を総攬する。憲法と並立する国家最高規範として皇位継承等に関する 皇室典範を定め,〈宮務法と政務法の二元主義〉をとった。立法権天皇衆議院貴族院で構成される帝国議会協賛により行なった。天皇法律裁可執行議会の招集解散緊急勅令官制・文武官の任免・陸海軍統帥・宣戦講和戒厳栄典恩赦などの広範な大権を有した。これらの大権行政権は各国務大臣輔弼ほひつにより天皇が行なった。司法権天皇の名において 裁判所行使,司法裁判所の他に特別裁判所が置かれた。 臣民の権利は天皇恩恵的に与えたものとされ〈法律の留保〉が付された。信教の自由については天皇神格化の結果〈 国家神道〉の強制に至った。兵役・納税が臣民義務とされた。
[解釈・運用]大日本帝国憲法は〈 絶対主義的〉要素と〈立憲的〉要素を有し,議会開設当初〈 超然主義〉的運用が続いたが,政党勢力の伸張が進み第2次 憲政擁護運動以後政党内閣の慣行がはじまり男子普通選挙制も実現した。憲法解釈ははじめ 穂積八束ら〈神権学派〉が天皇国体の独自性を強調,政党内閣期には 美濃部達吉ら〈立憲学派〉の 天皇機関説が学界・官界の通説とされたが, 教育勅語下の国民教育では国体イデオロギー強制された。1931年満州事変以後〈統帥権の独立〉の下に軍部が台頭し,5・15事件政党内閣制は崩壊,35年天皇機関説事件で美濃部学説も抹殺された。38年国家総動員法行政府に大幅な権限委任を認め,40年大政翼賛会結成で全政党解散し〈立憲的〉要素は駆逐された。38年以降ポツダム宣言受諾まで 御前会議が国政の最高機関となった。







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