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京都

・ このページの最終更新日時 2016年8月30日 (火) 12:27




京都」の掲示板 / コメント

きょうと

京都府南部,京都盆地に位置する都市平安京を母体として成立するが,湿地帯の右京に対し鴨川治水により左京が都市域として成長し,やがて院政期には北辺と鴨川の東の 白河都市域が急速に拡大した。白河一帯には六勝寺白河御所が造られ,その南の 六波羅の地にも平氏一族屋敷が造られた。南部でも,八条院御所平清盛西八条殿が営まれ市街地化が進んだ。鎌倉時代になると,武家寺家に対する公家の都としての役割を果す。承久の乱後に設けられた六波羅探題洛中の警護にあたったが,検非違使庁も引き続き京都土地裁判や商工業者の支配を行なった。
京都に開創された室町幕府南北朝内乱期以降,朝廷の諸権限を次第に吸収し,警察権裁判権,さらに商工業者に対する課税権を行使するにいたった。この頃の都市域は,内乱の影響や,北小路北に 室町殿が造られたことによって北方向への拡大が著しかった。しかし応仁の乱京都が戦場になって町々が焼かれ,また自衛のため堀や溝が築かれたことなどから,市街地の範囲は大幅に縮小し,その後,自衛・自治を目的に 町組ちょうぐみが形成された。
統一権力を迎えた京都は,1573(天正1)の織田信長による上京焼打ちに続き,天正末年に行われた豊臣秀吉による一連の政策,すなわち市中の地子じし免除, 御土居おどいの築造,中心部を除き新たに南北の道を通して短冊街区に変えた町割, 聚楽第の築造,寺町の形成などを経て,近世都市として変容をとげる。
江戸時代には幕府の直轄都市として,初期には 京都所司代,1668(寛文8)以降は 京都町奉行が市中を統治した。都市内部では個別町の住民共同体としての機能は他都市と比して一般に強く,またその連合組織の町組は,とくに中期以降には住民の意思結集の場となった。朝廷・寺社勢力を中心に伝統文化の中心地として,また西陣の機織物を核とする手工業,商業などにより栄え,人口江戸時代を通じて30~40万人を維持,江戸,大坂と共に 三都と称された。中期以降には西陣織物業の衰えなどにより経済的位置は低下するが,一方で京都を中心とした旅行案内記類が多く出版され,諸国から旅行者が訪れる観光都市ともなった。
末期に一時政治の中心地となるが,1868(明治1)東京遷都により政治的地位を減じた。だが69年に改編された上京下京町組を基盤とする(番組)小学校建設, 内国勧業博覧会の開催, 琵琶湖疎水の開削,市電敷設を含む交通網の整備などにより近代都市として発展,以後,伝統的文化遺産を多く持つ観光都市としても栄えている。89年に市制施行,98年までは市制特例により知事が市長を兼ねた。市域は次第に拡大,1929年5区,76年11区となり,人口は1889年約28万人,97年で139万人。







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