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中華人民共和国

・ このページの最終更新日時 2016年8月30日 (火) 12:06




中華人民共和国」の掲示板 / コメント

ちゅうかじんみんきょうわこく

東アジアにある,世界最大人口をもつ国。現在の「中国漢民族の国の美称)」は,中華人民共和国と同義に用いられることが多い。
〈概要〉中華人民共和国People’s Republic of China面積959.7万2。人口12億3,208万(1996)。首都北京(ペキン)。住民は漢民族92%のほか,モンゴル族ウイグル族・チベット族など55民族。言語は中国語北京語)が共通語。ほかに各種方言少数民族語。宗教仏教キリスト教道教・無宗教など。政体共和政。元首国家主席通貨単位元(ユワン)。
〈自然〉全ヨーロッパとほぼ同じ面積をもつ広大な国。地勢は西から東に向かって低くなり,南西部の標高4,000m級のチベット高原,北西部の標高1,000~2,000mの高原盆地,東部の標高1,000m以下の丘陵平野の3つに大別される。東部の平野モンスーンの影響で雨が多く,特に秦嶺(チンリン)山脈淮河(ホワイホー)を結ぶ線以南が多雨で,かつては,この線が北の畑作と南の稲作を分ける線とされた。西部の高原盆地乾燥し,砂漠草原が広がるが,四川(スーチョワン)盆地と雲貴(ユンコイ高原は雨が多く,耕地が広がる。
〈産業〉農業人民共和国成立後,治水灌漑(かんがい)・開墾土地改良や機械化が進められて発展。今では世界有数の農業生産国で,米・小麦をはじめ,多くの農産物の生産量が世界の上位を占める。農家はかつて,人民公社―生産大隊―生産隊の3級の組織に組み込まれたが,1978年末以来,生産責任制生産請負制)の導入,自由市場の公認,企業経営・家庭副業の公認などの農業自由化政策がとられた。人民公社も解体されて,郷(ごう)・鎮(ちん)となった。その後,耕地面積は減少したものの,生産性の向上によって農業生産が飛躍的に発展した。漁業1980年代に急速に発展し,今では世界一の漁獲量をあげている。工業は,鉄鋼業優先政策がとられてきた結果,従来からあった鞍山アンシャン)・武漢(ウーハン)の鉄鋼基地に加えて,包頭(パオトウ)・嘉峪関(チアユイコワン)に大鉄鋼基地がつくられ,中規模の鉄鋼基地もほとんどの省につくられた。また,各地での炭田金属鉱山開発の進行に伴い,鉱山機械工業が発展した。1978年末以降は,外国の資本・技術・経営方法を導入するため,外資系企業合弁企業工場の設置場所として,経済特区や経済技術開発区を指定し,深(シェンチェン)経済特区を中心に電子機器などの工業が発展した。農村でも,郷・鎮や農民企業家が経営する農村工業郷鎮企業)が発展した。一方では,これまで政府完全雇用政策社会保障制度の一翼をにない,余剰人員をかかえ,退職者への年金を支払っている国営企業は,大部分が赤字経営であり,その合理化の方法が深刻な問題となっている。鉱物資源石炭・鉄・スズ・タングステンアンチモンの生産量が世界第1位,鉛・亜鉛バナジウムモリブデンなども世界有数。おもな油田大慶(ターチン)・勝利(ションリー)・遼河(リアオホー)油田であるが,1980年代から生産量が横ばいで,タリム盆地・トルファン盆地渤海(ぼっかい)・黄海(こうかい)南部東シナ海などでの油田開発に力を入れている。
〈歴史―王朝の推移〉中国はBC17世紀~BC16世紀の殷(いん)王朝の初めになって,伝説時代を脱する。次の周(しゅう)はその後半が春秋・戦国という分裂の時代となり,BC221年秦(しん)がこれを統一して最初の中央集権国家を建てた。それは,漢(かん)に受け継がれ,魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の3国の分裂を経て,いったん晋(しん)に統一されるが,まもなく五胡(ごこ)十六国の分裂時代を経て,南北朝の対立時代にはいる。AD589年隋(ずい)がこれを統一し,618年唐(とう)が引き継ぎ,唐の滅亡後,五代十国という混乱期を経て,宋(そう)による統一がなされた(960)。その後,満族(女真(じょしん)族)の金(きん)の圧迫による宋の南渡(南宋)を経て,モンゴル族による元(げん),漢民族による明(みん),満州族による清(しん)へと統一王朝が続く。
〈歴史―列強の侵略〉1840年,イギリスがインドから持ち込むアヘンの見返りとして,多額の銀が流出するのに苦しんだ清が,それを禁止したことから,イギリスとの間にアヘン戦争が起こり,清は敗れて南京(ナンキン)条約を結んだ。これが列国の中国侵略の発端となる。清が威信を失い,外国の経済圧迫が加わったのに抵抗して,1851年には太平天国の革命が始まる。この戦いは15年も続く。こうしたなかで,西洋科学技術を採用し,国力の回復をはかろうとする動きが現れた。これを洋務運動という。しかし,日清戦争の敗北を転機として,政治や制度の根本的改革の必要がさけばれる。この動きが変法自強運動であるが,保守派の台頭によって戊戌(ぼじゅつ)の政変が起こり,義和団事件北清事変)という排外運動にまで発展した。その結果,北京(ペキン)は8か国の連合軍占領され,中国の半植民地化が急速に進んだ。この間に,孫文(そんぶん)を指導者とする革命運動が進められた。1911年武昌(ウーチャン)における挙兵を機に,翌年孫文南京(ナンキン)で大総統に選ばれ,中華民国が成立。これが辛亥(しんがい)革命である。
〈歴史―国共合作内戦〉清の皇帝退位したが,新政府の実権は袁世凱(えんせいがい)に握られ,袁の死後は,その旧部下である軍閥の支配が続いた。しかも日本の二十一か条要求をはじめ,列国の圧迫は少しもやまず,1919年,全民衆的な反抗として起こったのが五・四運動である。このような情勢のもとに中国共産党が生まれ,1924年には広東(コワントン)にあった孫文国民党が,軍閥帝国主義の打倒を目標としてこれと合作する(第1次国共合作)。やがて北伐が開始されると,まもなく国共は分裂した。共産党は激しい国民党軍の攻撃を受け,1934~1936年,1万2,500にわたる大移動(大西遷長征)を行って,根拠地を江西(チアンシー)省から陝西(シェンシー)省の延安(イエンアン)に移し,日本に対するゲリラ戦を指導した。満州事変を経て,日本中国進出が露骨になると,第2次国共合作が行われ,抗日統一戦線が成立(1936)。日中戦争が本格的に始まるのはその翌年で,1945年日本の敗戦の結果,中国は戦勝国として連合国の有力な一員の地位を得た。しかし,1946年になると国共内戦が始まり,1949国民党政府台湾に逃れて,共産党による全国統一が完了した。同年10月1日中華人民共和国が成立し,毛沢東(もうたくとう)がその主席に選出された。
〈歴史―新中国の歩み〉1955年後半から毛沢東の指導により,社会主義改造のテンポが急速に早まり,1956年末には農業同化をはじめ,社会主義改造の基本任務を達成。以後,社会主義社会としての強大な国家を建設するとともに,より早く共産主義社会移行することが目標とされ,1958年には人民公社が出現した。一方,このころからソ連との対立が表面化し,またアメリカ合衆国中国封じ込め政策も強化されたため,帝国主義現代修正主義に対する闘争が政治の前面におし出され,1957年の反右派闘争や,19641965年の「整風」運動,それに続くプロレタリア文化大革命によって,「毛沢東思想」を全人民に体得させることが第1の政治目標になった。一方,西側の中国承認が増加し,朝鮮戦争ベトナム戦争台湾問題をめぐって最悪の関係にあったアメリカ合衆国も,1970年代にはいると対中国政策を転換したため,1971年国連で台湾に代わって中国代表権を獲得。文化大革命毛沢東の死を機に,江青こうせい)ら「四人組」が逮捕されたことで一段落し,失脚していた小平(とうしょうへい)も復活した。その後,経済の対外開放,農村都市の経済改革を進めたが,自由化の逸脱をとがめられて,胡耀邦(こようほう)は1987年失脚し,1989年4月死去。彼の名誉回復と民主化を求めて発生した学生運動は,市民をも巻き込んで,6月4日の「天安門事件」に至り,その責任により趙紫陽(ちょうしよう)が失脚。以後は小平江沢民(こうたくみん)体制下で,「社会主義市場経済」への急速な移行が進められた。1989ソ連と,1991ベトナムと関係正常化。1992韓国(かんこく)・イスラエルと国交樹立。1997年には香港(ホンコン)がイギリスから返還された。一方では,天安門事件以来の民主化運動や,チベット族イスラム教徒の分離独立運動に対し,厳しい態度でのぞんでいる。







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